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Toshiyuki Beppu

聖地巡礼

更新日:2023年10月3日


バイロイト祝祭劇場

 


 クラシック音楽のファンではなくても、リヒャルト・ワーグナー(1813 - 1883)の名前はご存じでしょう。あるいは、作品を知らなくても、タンホイザーローエングリンの旋律は聞かれたことがあると思います。ドイツ、ロマン派の大作曲家です。


 ワーグナーは、他の大作曲家が誰一人として、たとえば、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685 - 1750)も、ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト(1756 - 1791)も、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770 -1827)も、・・・も、やっていないことをなしとげています。


 ワーグナーは、自身のための劇場を建てたのです。


バイロイトの至るところにワーグナーは立っている



 「作曲家」とよびましたが、彼は、作曲をしただけではありません。物語を作り、歌詞も書きました。つまり「劇作家」でもありました。また、彼以前には「歌う」だけであった歌手を「演技しながら歌う」ようにと変えました。すなわち、「演出家」としての役割も果たしました。

 ワーグナーは、物語に歌曲を加えた『歌劇(オペラ)』ではなく、音楽と劇を一体化した『楽劇(Musikdrama)』を目指していたのです。


 ワーグナーは、作品だけでなく、上演空間も追求しました。


 観客がステージに集中するためには、側面の天井にまで仕切席や桟敷席を備えた馬蹄形のホールではなく、古代ギリシャの野外劇場のように扇形に広がる座席配置を理想と考えます。さらには、客席とステージを分かつオーケストラ・ピット(ステージと客席の間の一段低くなった演奏エリア)もまた、劇への集中を妨げる要素とみなしました。そして、彼の考える響きを作りだすために、オーケストラをほとんど現在と同じくらいの編成にまで拡大します。


馬蹄形に仕切席の並ぶバイロイト辺境伯歌劇場(世界遺産!)



 ところが、彼の楽劇に理想的な劇場はありません。そこで、彼は劇場の建設に立ち上がります。支持者を中心として各地に「ワーグナー協会」のネットワークが作られ、現代風にいえば「クラウドファンディング」として寄付を募りました。建設は、1872年に始められます。ところが、十分な額を集めることはできず、工事は中断します。

 最終的にバイエルン王ルートヴィヒ2世(1845 - 1886)からの資金援助を受け、1876年にバイロイト祝祭劇場は完成します。


バイロイト祝祭劇場の内部写真とワーグナーの胸像

(Heeren Chiemsee New Palace, King Ludwig II Museum の展示より)



 バイロイト祝祭劇場(3D)は、彼の芸術的理想を体現するために、それまでの劇場とは、そして、その後に作られた劇場とも、大きく異なった構造的、音響的特徴を有しています。

 客席の建物は、最後部が円弧状となったほぼ長方形の形状です。ここに、古代ギリシャの野外劇場のように扇形に広がる客席を配置しています。長方形のホールに、客席を扇形に配置したのでは、前方になるにしたがって側壁と客席の間隔が広がり、間の抜けた空間となってしまいます。そこで、側壁から七カ所に円柱と間壁を設け、扇形の建物であるかのように観客を錯覚させるとともに、視線をステージへといざなっています。そして、この間壁は、劇場の中にうまく音を混ぜ合わせるようにも働いています。音響学などない時代ですが、客席の建物を放射状としたのでは、よい響きとならないとわかっていたのでしょう。


バイロイト祝祭劇場の内部写真とルートヴィヒ2世の胸像

舞台は『パルジファル』聖杯城の聖堂

(Heeren Chiemsee New Palace, King Ludwig II Museum の展示より)



 勾配のつけられた床から天井までの平均高さは 13 m あり、その容積によって約1.6秒(満席時)と、オペラハウスとしては長い残響時間を確保しています。たとえば、ウイーン国立歌劇場は1.3秒、ミラノ・スカラ座は1.2秒、パリ・オペラ座は1.1秒と、世界的なオペラハウスは、早いパッセージでの歌唱を明確に聴かせるため、より短めの残響時間となっています(ちなみに東京文化会館大ホールは1.5秒)。

 ところが、ワーグナーの壮大な楽劇は、オーケストラの響きの上に朗々と歌いあげるシーンで占められます。つまり、ワーグナーの楽劇のためには、残響時間は長い方が合っているのです。残響時間は、歌を伴わない交響曲や管弦楽曲であれば、より長い2秒くらいが好まれるのですが、長すぎると歌詞の明瞭さが失われます。


 さらに祝祭劇場には「神秘の奈落」とよばれる、ステージの下へと掘り下げられたオーケストラピットと、その上部を半円形状に覆う「庇(ひさし)」があります。コンサートホールのステージでは、オーケストラはうしろの楽員ほど高い位置になるように床が持ち上げられています。それと真逆で、うしろになるほど低くなったピットの中では、これも他のオペラハウスではできないことですが、ふつうのコンサートホールと同じように弦楽器が指揮者の近くに、管楽器や打楽器がそれを囲むように配置されます。

 「庇」は、歌い手とオーケストラのバランスがより適切となるようにと、そして、ステージ上の幻想の世界がオーケストラ・ピットによって邪魔されないようにと、ワーグナーが考えたものです。その効果によって、大編成のオーケストラに歌い手の声が隠されることなく、明瞭に客席へと伝わります。

 もしかすると、ワーグナーは、姿の見えないオーケストラから奏でられる神秘的な響きを期待していたのかもしれません。いずれにしても、この「神秘の奈落」と「庇」が、バイロイト祝祭劇場の音響的特徴を作りあげています。


Richard Wagner Museum の展示模型

客席と間壁、客席最前列には「庇」がみえる。客席の右がステージ建屋



 今回の巡礼では、パルケット(古代ギリシャ式劇場風に配置された平土間)の比較的前方の席で聞きました。ところが、以前に聞いた後列との音量差はそれほどではないと感じます。ふつうのクラシック音楽用ホール(サントリーホールや東京文化会館大ホール、新国立劇場オペラパレスほか)では、前列と真ん中、後列で、かなりの音量差を感じます。バイロイトは、それほどではない。


 この違いは、オーケストラピットと、客席の配置が生み出していると考えます。


 まず、ピット。「深淵の奈落」からの音は、「庇」によってステージ方向へと放射されます。楽器の音は、直接には客席に伝わりません。オーディオ的に語れば、「ステレオ定位」なんてものはまったく感じられない。その楽器の音は、下からとも、前からとも、どこからとも判然としない方向から融合されて届けられます。

 ステージへと放射された音は、客席エリアより倍以上の高いステージ建屋(異なる場面のセットや、舞台を囲む帆布をつり上げている)からの「反射」としてではなく、ステージ上での「回折」によって、客席へと回り込みます。ですから、客席の届くオーケストラの音は、1点の音源から球状に放射されたものではなく、広がった音源から伝わってくる“平面波”に近い状態と思われます。


写真左側の大屋根の部分がステージ建屋



 また、すべての客席よりも低い位置にあるステージ(このような構造のオペラハウスやコンサートホールは他にはありません)と、階段状に配置された客席(最前列から1列ごとに20 cm くらいずつ高くなっている)は、後方の席に声を伝えるのに有利です。歌い手の声は、ステージ面での反射で増強され、後ろの席であっても、前に座る人の頭に遮られることなく直接耳へと到達します。このメカニズムを知っていたからこそ、古代ギリシャでは斜面を利用して客席を建設したのでしょう。


 ただし、祝祭劇場ではステージ建屋が高いためと思われますが、歌い手のすぐうしろにセットがないときには、ステージの奥になればなるほど、声の音量は下がります。できるだけ前のほうで歌って欲しい。とくに美しいソプラノは。

 それでも、1800席の(現代の規模からすれば)大きくないホールです。ホールが小さければ、歌手の声はそれだけ大きくなります。声は、明瞭さを失うことはありません。3600人!も入る渋谷の某放送局ホールでは、歌は聞こえなくなってしまいます。


劇場正面



 このオーケストラ・ピットを覆う「庇」には弱点もあります。ヴァイオリンの輝かしい音が抑えられてしまうのです。幾度もバイロイトで演奏したある指揮者は「ピットの内部では音は素晴らしいけれども、外側では弦の音が完全に消え、結果として音楽の質が貧弱になる」と語っていたそうですが、まさにその傾向です。


 それでも、庇とステージの間から放出されるオーケストラの音は、歌い手を圧倒することがありません。フォルテシモで演奏するオーケストラと歌い手の声を融合させることが、ワーグナーの意図だと思いますが、劇場の響きは、彼の目標を達成しているでしょう。


公演は午後4:00に始まり、第3幕の始まる頃には日が暮れている



 バイロイトには、ワーグナーが祝祭劇場を建てる傍らに住んだ家が残されています。ワーグナーは、この建物に『ヴァーンフリート(迷妄から解放された安らぎ)』と名付けました。いまは、リヒャルト・ワーグナー博物館になっています。美しい建物ですが、第2次世界大戦中の爆撃によって破壊され、再建されたものです。


ヴァーンフリート荘。正面にはルートヴィヒ2世の胸像



 幸いなことに、バイロイト祝祭劇場は2度の大戦を生き残りました。完成当時の姿を、そして、ワーグナーが作りだした響きを、今日に伝えています。


公演が終わり、“緑の丘”を下るひとたち



 祝祭劇場は、1876年8月13日に『ニーベルングの指輪』で幕を開けます。ところが、この年の3回の公演は大赤字となります。赤字の補填と、ワーグナーの健康悪化もあって、それからの6年間、劇場は閉められたままでした。

 1882年7月、ワーグナー最後の楽劇『パルジファル』が祝祭劇場で初演されます。8月までの16回の公演は歓呼で迎えられ、最後の公演ではワーグナー自身が指揮をしました。

 翌1883年2月、ワーグナーはベネチアで70歳の生涯を閉じました。いまは、妻コジマとともに、ヴァーンフリートの裏手で眠っています。


リヒャルト・ワーグナーと妻コジマの墓



 いろいろと述べましたが、細かいことはどうでもよい。バイロイト祝祭劇場なのです。ここでこそ、ワーグナーの描いた音楽を、彼の実現した響きとともに、感動のうちに浴びられるのです!ここは「聖地」なのです。


 しかし、ひどい演出によって、祝祭は崩壊します。あの『指輪』のステージは目を覆いたい。品がない。ワーグナーに対する畏敬の念がない。そう感じるのは私だけではないようです。“もっとも入手が難しい”といわれたバイロイト音楽祭のチケットは、2023年、遂に売れ残りました・・・。



参考文献

バイロイト音楽祭HP:https://www.bayreuther-festspiele.de/en/

バリー・ミリントン:バイロイトの魔術師 ワーグナー、悠書館、2013

レオ・L・ベラネク:音楽と音響と建築、鹿島出版会、1972


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