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Toshiyuki Beppu

拍手をノイズとみなすなんて



 クラシックのコンサートでは、演奏の前にお定まりのアナウンスがあります。


『録音、録画、写真撮影は固くお断り致します』。そりゃ、そのとおり(といいながら、海賊盤CDを数百枚持っている)。

『携帯電話、スマートホンの電源をお切りください』には、このご時世『新型コロナウイルス接触アプリをお使いの方は、音や振動が出ないようにセットしてください』と追加があり、さらには『ブラヴォーなどのかけ声はご遠慮ください』とお願いの形をした命令も付け加えられています。

『アラーム付き腕時計をお使いの方は、アラーム音を解除してください』。これには20年くらい前までは悩まされました。20時になると、あちこちでピッピッと。でも、持ってる人は「音が出ること」を意識しなくなっている。幸いなことにこの頃は、あの音は聞かれなくなりました。

『補聴器をお使いの方は、音が外に漏れないよう正しく装着してください』。この注意は他のホールではないのですが、たしかに、となりの耳元から音が漏れてくると迷惑ですね。


 先日は、こうもアナウンスされました。

『演奏の余韻を楽しむために、指揮者の手が完全に降りるまでは拍手をお控えください』。

「おいおいおい、そこまで言うかよ(*)。ド田舎のホールではないんだぞ(**)。東京のサントリーホールだぞ。ここに来る客は、そんなことはわきまえてる!」。と思いながら見回すと、カメラが入っています。

「そうか、録画するのか。ライブ盤に演奏後の拍手を入れたくないのだな」。


(*) 某放送交響楽団で『N響アワー』の撮影が入ったときに、そのようなアナウンスをされた経験はありません。

(**) どことは言いませんが、田舎のホールでチャイコフスキー交響曲第5番、第4楽章のフィナーレ直前のパウゼ(演奏の休止)で、幼稚なオジサンに拍手を入れられて演奏を台無しにされたことがあります。


 私などはセッション録音であっても、それが名演であればあるほど、音が消えたあとに拍手がないのを不思議に感じてしまうのですが、録音側には拍手をノイズとみなす人たちがいるようです。大手レーベルであっても、ライブ録音の拍手を不自然に消している(と私が断定する)ものもあります。

 たとえば、レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニックのマーラー交響曲第2番『復活』(DG 423395) 。素晴らしい演奏です。バーンスタイン節が炸裂し、情緒たっぷりに歌いあげる熱演は、ファンにはたまらない(彼の最後の来日でのチケット争奪戦に敗れたことが、いまも心残りです)。でも、このDG盤、盛り上がったあげくの最後の最後に、音が不自然にフェードアウトします。おそらくは、その直後に熱狂した聴衆の拍手が被さったのでしょう。


 でも、なぜ、感動が表されている、その観客の熱狂をカットする必要があるのでしょうか。拍手が「演奏の余韻をかき消す」とでも思っているのでしょうか。そのような、拍手をノイズとみなす人たちに、感動を伝える商品を作ることができるのでしょうか。


 ところで、日本人は義理堅いですね。演奏が良くても悪くても、場内が明るくなるまでは拍手を続けます。それでも、拍手の盛り上がりは演奏の出来によって変わります(出演者の人気によっても変わりますが)。お祭り騒ぎのように、全員がスタンディングオベーションとなった体験もあります。反対に、お義理感がにじみ出たパチパチパチにも遭遇しました。

 たいていは、明るくなるとそこで「おひらき」ですが、楽団員たちが去る間も鳴り止まず、指揮者を二度、三度とステージへと呼び戻したシーンにも、幾度も遭遇しました。あるいは、演奏に戸惑ってしまったのでしょう、都響の定期演奏会でこんなに拍手が少ない(私は少数派の一人として、熱狂的な拍手を送りました)と、それはそれで、強烈な印象となったこともありました。


 その場にいた人たちが、どれだけ感動・共感・理解したかを表すパラメータが拍手の大きさです。クラシックの演奏会では。カメラに写らないADさんが客席にサインを送るバラエティ番組の収録ではありません。素晴らしい演奏であれば、割れんばかりの拍手がホールに渦巻くのは必然です。

 それに、東京の聴衆は紳士淑女です。最後の音が消え入るように響く曲で「余韻を楽しむ」なんてことはしません。その音を一心に聞いていたなら、いつ、その感動を表現すべきかをわきまえています。


「奇跡の拍手」とでも呼ぶのでしょうか。ホールの全員が演奏に打ちのめされたときだけに起こる拍手を経験したことがあります。

 コンサートに通い始めたのが1980年頃ですから40年あまり。数えてはいませんが、年に10回としても400回は出かけた計算ですが、その中で3回ありました。多いのか少ないのかはわかりません。


 そのひとつは1988年4月2日、ガリー・ベルティーニ指揮ケルン放送交響楽団、マーラー交響曲第9番でした。


 クラシックを知らない方のためにちょっと解説しますが、第9番はグスタフ・マーラー(1860-1911)最後の交響曲です。その第4楽章はアダージョと名付けられ、深い悲しみをたたえた旋律が続きます。この第4楽章の最後の小節にマーラーは、ドイツ語でersterbend(死に絶えるように)と指示を書いており、弦楽合奏が静かに続き、消え入るように終わります。ですから指揮者のタクトが止まり、残響が消え去ってから、ゆっくりと拍手が盛りあがるのが常です。他にも3人の指揮者でこの曲を聞いた覚えがありますが、いずれもそうであったと記憶しています。


 その日、私は第4楽章の最後の小節へと続く弦楽の旋律に、茫洋(ぼうよう)とした濃い霧の中に放り出されたかのように漂っていました。多くの聴衆が、私と同じように深く心に、しみじみと感じていたのでしょう。最後の響きが消え、静寂がホールを包んでから拍手をしたのは数人でした。ふだんであれば、我も我もとその拍手に続くのですが、その日はだれもいません。

 3秒、あるいは5秒後くらいでしょうか、拍手が途切れました。そして、一瞬の静寂が訪れ、次の瞬間、拍手の嵐が舞い起こりました。皆が催眠術から目覚めたかのように。感動をもたらしてくれた奏者へ、この曲を書き残してくれたマーラーへの感謝が、一斉に湧き上がった瞬間でした。


『いつ拍手をせよ』あるいは『拍手をするな』、なんてアナウンスをされたのでは、たとえどんなに素晴らしい演奏であっても「奇跡の拍手」は起きません。そんなに拍手がじゃまなら、セッション録音をすればよいのです。チケット代を払って来ているお客に、押しつけがましい要求を突きつけるなんて。それも「余韻を楽しむ」なんて偽善者ぶって。


 録音を制作する人たちは、拍手をノイズとみなしているのでしょう。かなしいことです。


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