『孫子』は、紀元前500年頃の中国の武将・軍事思想家である孫武が著した兵法書です。そのなかに、
『孫子は次のように言う。およそ戦争を行う場合の法則として、国を挙げての戦争においては、自国に損傷を来させないことが上策であり、自国を損傷し破滅させるのは下策である。軍を挙げての戦闘においても、味方の軍を損傷させないのが上策であり、味方の軍を損傷し破滅させるのは下策である(*注)。(中略)。このような訳で百戦百勝しても、それは自国と自軍を損傷させるから、最上の方法ではない。敵と戦うことなくして、計略を持って敵の兵を屈服させることが最上の方法である。(山本七平、「孫子」の読み方、日経ビジネス文庫)』
との一節があります。戦って、すべてに勝ったとしても自国と自軍も損害を被ります。ですから、戦わないのがベストであって、戦わないように計略を巡らすべきとの論考です。
(*注) 原文には「国」「軍」としか書かれていないため、『敵国を傷つけずにそのままで降伏させるのが上策で、敵国を打ち破って屈服させるのはそれには劣る。(金谷治、新訂孫子、岩波書店)』のように[敵]国とする読み方もあります。
これは、ハムノイズに関しても同じです。
「別俊は次のように言う。およそオーディオ装置を作る場合の法則として、財布を空にしての投資においては、音に不満を抱かせないようにすることが上策であり、よくない音に愚痴をこぼすのは下策である。アンプを作るときにおいても、ノイズが出ないようにするのが上策であり、ノイズを出すのは下策である。このような訳でノイズとの戦いに百戦百勝しても、それは時間と労力を浪費させるから、最上の方法ではない。ノイズと戦うことなくして、ノウハウをもってノイズを屈服させるのが最上の方法である」。
つまりは、『ハムノイズとの戦い』『ハムノイズが聞こえてしまった』のように、発生したノイズを取り除くのは下策です。発生させないことこそ上策です。本稿では、そのための戦術を論考します。
ノイズの経路
アンプからハムノイズが聞こえる状態は、アンプ回路がノイズを出しているのではありません。アンプ回路が、外部からの影響を受けています。つまり、ノイズ源があり、ノイズ源からノイズを伝える結合チャネルがあり、アンプ回路がノイズを受け取るレセプタとなっています(図1)。
したがって、ノイズの防止には、
何がノイズ源か
どこに結合チャネルがあるのか
ノイズを受けている箇所(レセプタ)がどこか
を特定することが重要です。
図1 ノイズ源と結合チャネル
ハムノイズに関していえば、ノイズ源は電源トランスです。これはアンプに内蔵されたもの、他の装置に使われているもの、のどちらもあります。AC 100 V の電源線もありますが、平行2芯の電線から放射される電磁場はトランスからの漏洩とは比較にならないほど小さいですから、その可能性は考えなくてよいでしょう。
ノイズを伝える結合チャネルには、
電線
共通インピーダンス
電界と磁界
の3経路があります。
電線からの結合は、たとえば電源回路からの直流電圧に重畳したリプル電圧です(図2)。けれども、トランジスタアンプで一般的な「差動アンプ+エミッタフォロワ回路(オペアンプもこの構成です)」は、電源電圧変動に強いですから、電線による結合は考えなくてよいでしょう。ただし、相当にマニアックな「シングルのエミッタ接地回路」などでは電源電圧が直接出力に現れますから、影響を受けるかもしれません。
図2 電線による結合
また、電圧安定化回路を使えばリプル電圧は数~数十nV 程度には圧縮されます。ですから、電圧安定化回路を使っているのにハムノイズが聞こえたとしたら、どこか他の結合チャネルが存在すると考えるべきです。
共通インピーダンスは、アンプ内の配線によって生じます(図3)。これは、ハムノイズとして聞こえなくても、音質劣化として聞こえる要素です。これについては次回以降に考えましょう。
図3 共通グランドインピーダンスがあると、
それぞれのGND電圧 (VGND) は他の回路の IGND に影響される
さて、やっかいなのが目に見えない電界と磁界です。電線に限らずあらゆる回路要素は、電流が流れると電磁界を放射します。といっても、電源周波数で変調された電流が流れる電源トランスに比べれば、他の回路要素の放射する電磁界は問題ではありません。電源トランスが、もっとも大きな放射源となります。
誘導性結合と容量性結合
電磁波とよばれるように、直交する電界と磁界が平面波として伝搬します。ここで、輻射源に近いエリア(波長λを2πで割った距離未満。60 Hz では λ = 5000 km ですから、アンプの中は「近いエリア」です)では、電界と磁界をそれぞれに考えます。また、電界と磁界は空間を伝わりますが、波長に比べて十分に短い領域(アンプの中は「短い領域」です)での結合は、集中定数(導体の間に1個のインダクタとキャパシタ)として考えられます。
誘導性結合
交流磁界内にある導体には、起電力が生じます。電線に限らずプリントパターン、パーツの足、抵抗器の抵抗体など、あらゆる導体に起電力は生じます。そして導体は、どこかで他の導体とつながってループを構成します。面積 A のループを密度 B の磁束が横切ると、A と B の積に比例する電圧 VN が誘起されます(図4)。
VN = jω A B (1)
図4 面積 A のループに密度 B の磁束が横切ると電圧VN が誘起される(誘導性結合)
ここで、A と B の代わりに相互インダクタンス M とノイズ源の電流 Is を用いれば、図5ように考えることができます。このとき、式(1)は式(2)と表せます。
VN = jω M Is (2)
図5 相互インダクタンス M によって誘起される電圧VN (誘導性結合)
このように、ノイズ源からの交流磁界が相互インダクタンスによって電圧を誘起させる結合チャネルが、誘導性結合です。
誘起電圧を減らすためには、相互インダクタンス M を小さくします。そのためには、
相互インダクタンス M を小さくするため、ループ面積 A を小さくする
相互インダクタンス M を小さくするため、輻射源を遠ざけて B を小さくする
輻射そのものを減らして B を小さくする
ように対策します。
容量性結合
電界が、グランドに対してインピーダンスを持つ導体に電圧を誘起する結合チャネルが容量性結合です。プローブに何も接続していないときのオシロスコープ画面を想像してください。かなりのレベルの信号が観測されます。これは空間を伝わってプローブの先端に到達したノイズです。その証拠に、プローブ先端をシールドする(図6)と、ノイズは減ります(図7)。
図6 プローブをシールドする(ブルー)
イエローは何もしていない状態
図7 容量性結合によってプローブに侵入するノイズ
ブル-:プローブ先端をアルミホイルでシールドした状態
イエロー:何もしていない状態
容量性結合(図8(a))は、ノイズ源とレセプタがキャパシタンスでつながっていると考えます(図8(b))。
図8 容量性結合は、レセプタにキャパシタンスがつながったと考える
ノイズ源の電圧 Vs が、グランドインピーダンス Rr をもつレセプタとキャパシタンス Csr でつながっているとすれば、周波数が低いときのレセプタ誘起電圧 VN は式(3)で近似されます。
VN = jω Rr Csr Vs (3)
容量性結合を小さくするには、
レセプタとグランド間のインピーダンス Rr を小さく
輻射源との距離を大きくして、ストレーキャパシタンス Csr を小さく
シールドを用いて、ストレーキャパシタンス Csr を小さく
ノイズ源 Vs を小さく
します。
誘導性結合と容量性結合
誘導性結合と容量性結合の違いを理解することは、ノイズ対策に役立ちます。図9に誘導性結合によって発生する雑音を示します。式(2)に示した雑音電圧 VN は、上流側アンプの出力抵抗 Rout と下流側アンプの入力抵抗 Rin との間に発生します。ここで、信号源 Vsignal はインピーダンスを持ちませんから、VN は、Rout と Rin で分圧されて VN' となります。つまり、Rout を小さくしたときには、Rin に入力される雑音電圧 VN' は増加します。
図9 誘導性結合によって誘起される雑音電圧VN'
これに対して容量性結合では、雑音は電流として現れます(図10)。図8(b)と式(3)右辺に示すレセプタ抵抗 Rr は、図10では Rin としています。そして、信号源 Vsignal はインピーダンスを持ちませんから、信号源の出力抵抗 Rout は Rin と並列になります。ですから、Rout を小さくしたときには、雑音電圧 VN' は減少します。
図10 容量性結合によって誘起される雑音電圧VN'
以上の性質を知っていると、たとえば、以下のように現象を整理できます。
アンプの入力に何も接続していないときにハムノイズが出力され、入力RCAジャックにショートプラグを入れてノイズレベルが下がったとすれば、これは図10の Rout を無限大から0にしたことに相当する。したがって、入力ラインへの容量性結合が疑われる。
入力に何も接続していないときにハムノイズはないが、他の機器を接続すると発生するのであれば、入力にループが構成されて誘導性結合が生じたと考えられる。(他の機器がノイズを発生してる可能性もある)。
どこかに触れるとハムノイズが大きくなったとすれば、その箇所への容量性結合が増加したと考えられる。
では、EVR-323 ヘッドホン・ドライバ(タイトル写真と図11)で考えてみましょう。このアンプでは、写真左の基板に載せた MUSES 72323 電子ボリューム IC の出力を、右のアンプ基板に載せた MUSES 03 が受けています。MUSES 72323 の出力はハイインピーダンスで受ける必要があるため、入力抵抗を使用しないでMUSES 03 の入力インピーダンス(データシート には記載がありませんが、FET入力ですからGΩくらいはあるでしょう)で受けた状態です。両方の基板の間は、赤と銅色のツイストペア線で接続されています。
図11 EVRとアンプ基板をつないでいた赤と銅色のツイストペア線
指でこのツイストペア線を触るとノイズレベルが上がりました。これは、容量性結合を大きくした状態です。ただし、高インピーダンス線路ですので、この箇所への電源トランスからの誘導性結合もあると考えました。そこで、ツイスト線を被覆の薄いものに交換して、さらに強く撚ってループ面積を小さくしました。この、誘導性結合への対策によってハムノイズはなくなりました。それでも、ツイスト線を触ったらノイズが聞こます。若干の容量性結合は残されています。ですけど、ケースを閉じれば指を入れられませんから、これでよしとしました。
いずれにしても、高インピーダンスのラインを引っ張り回したのがマズいのです。このため、誘導性と容量性の双方の結合が生じました。図9からも図10からも、Rin が大きくなればノイズが大きくなることは明白です。不用意に高インピーダンスへのラインを長くしてはダメです。
参考文献
ヘンリー W. オットー著、詳解EMC工学 実践ノイズ低減技法、東京電機大学出版局(2013年)。この本のタイトル前半は「電磁環境両立性工学」と難しいですが、後半の「ノイズ低減技法」が、より適切に内容を表しています。もともと『電子システムのノイズ低減技法 (Noise Reduction Techniques in Electronic Systems)』というタイトルで1975年に出版された本の改訂増補であり、アナログ回路のノイズ対策についても詳細に説明されています。本稿を記すために久々に読みましたが、たいへん勉強になります。
(その2はこちら)